さらざんまい一話で思ったこと
繋がりすぎ、がテーマ?
OP前のシーン、アの看板が降ってきて、記憶をケッピに取られた時と同じ反応をしている。なんらかの記憶、死んだ記憶?がなくなったのでは
僕は今度こそ、の今度こそが何なのか
普通に考えたらOPに出てる女の子のことだけど
アは何なのか
愛
アに丸=アニマル
浅草のア
箱はスマホの暗喩か
アサクササラテレビの下テロップ
「普通の人間には見えません。サラットレポート:王子を探しています。特徴はイケボで良い匂いで色白でもち肌でカエルじゃないディッシュ。好きな食べ物はキュウリディッシュ。普通の人間には見えません。(繰り返し)」
サラの語尾、ディッシュは皿(dish)
裏で流れている歌詞も、人には見えてない、気づかれないみたいな歌詞
死後っぽい?
kappazonのロゴ、カッパの顔になってて可愛いね
モブがピクトグラムのときとそうでないときの違いは
世界の食器・調理器具 川ウソ
川嘘交番
後々カワウソのロゴも出てくる。芥川龍之介の河童みたく、カワウソと河童が争ってる構図なのか
テロップ二つ目「王子はコールドスリープでどこかに眠っているはずディッシュ。もしそれを破壊したものは祟られるディッシュ」
先生が姉ちゃんだったの見直して気づいた。全然キャラの顔覚えられねぇ
尻子玉抜かれるシーンでアが裏返ってカワウソになっていってるの何なんだろうか
欲望フィールドはカワウソ看板だらけ
見ることができない→生きていて死んでいる
この論理はシュレティンガーの猫
アを貼ると見えるようになる
三人目のメガネの子、クッソ適当な理由で河童にされたけど、メインキャラクターだし裏ありそう。
三つ目のテロップ「大人買いには箱が必要ディッシュ。サラはちょこばーブラックサンダーを大人買いしてるディッシュ。誰にも言えない秘密ディッシュ。夜逃げにも箱が必要ディッシュ」
カパゾンビが下っ端ーずを使役している。
生前、ということは、カパゾンビは死んでいる?
ゾンビだし。
カパゾンビ、一人目「箱ゾンビ」
河童らえ、かっぱらえ
「知られて困るような秘密を持っている奴が悪い」
これはかなりテーマに近いっぽい
さらざんまいとは
皿3枚
沙羅三昧
さらざんまい
電波も三つ立っているし、転送という言葉もデジタルっぽい。
電波のマークにもアが付いている
欲望消化
欲望昇華
箱田が、始まらない、終わらない、繋がらないベン図の中に消える。
はるかっぱの持ってるスマホにカワウソロゴが
映画「鈍獣」はいじめっ子といじめられっ子の友情物語だった。
映画、「鈍獣」を見た。
なんでわざわざ、映画を強調するかと言うと映画以外の「鈍獣」が存在するからだ。
もともと、「鈍獣」は、生瀬勝久、池田成志、古田新太によるねずみの三銃士というユニットのために宮藤官九郎が脚本を提供した、演劇である。
ねずみの三銃士って何?とか、聞かないでほしい。詳しくないから。ただ、○獣って言うシリーズになっていて、三作ぐらいある。ストーリーは続いていないから、まぁコンセプトがシリーズなんだろう。
俺が初めて「鈍獣」を見たのは高校三年ぐらいの時だったと思う。WOWOWで上記のシリーズ三作を放映していて、あの時は若干演劇にはまっていたのもあって、単純に予断なく面白そうだな、と思って見た。
で、三作全部見たんだけど、三作全部腑に落ちなくて(これは演劇にはよくあること)、見た後の気持ち悪さと言うか、呆気なさと言うか、それぞれなんとなく印象に残った。それでも、そんなシリーズ中でもやっぱり「鈍獣」だけが異彩を放っていると言うか、話のまとまりが良いってのもそうだし、なんか言いようのないメッセージが伝わって来て、でも俺はそれを理解できないまま、ここまで来ました。
と言う今になって「鈍獣」の映画版がまたWOWOWで放映されると言うので、見ました。
結論から言うと、ライトでポップになった映画「鈍獣」は、いじめっ子といじめられっ子の友情物語だった。
少なくとも俺はそう思った。
と言ってもなんの事やらと言う感じであるから、ストーリーを説明しよう。
一応、下からネタバレが始まるのでネタバレが嫌な人は避けてほしい。余談だが、俺はネタバレされるのも、するのも、全く気にしない人だから、よく他人から怒られる。
舞台は田舎町の寂れたホストクラブ。そこに、女性編集者、静が謎の失踪を遂げた小説家凸川を探しにやってくる。そのホストクラブの店長江田、常連客の岡本、その他面々から、静が話を聞き出し、凸川の行方を探る。と言うのが、話の大筋である。
文章を書くのって時間がかかって面倒だな
文章を書くのって時間がかかって面倒だな、って言う話。
俺の頭の回転が悪いせいかもしれないんだけど、文章書くの、すげえ怠い。
俺の日記が続かない理由の一つに文章を考えているうちに眠る時間になってしまう、と言うものがある。
時間がかかるから、やる気にならず書き始めようと思うまでに時間がかかるし、実際書き終わるまでも時間がかかるから、夜になってしまう。そして俺は絶対に夜は寝ると決めている。朝起きると書きかけの文章があるんだけど、すげえ気分悪いから続きを書く気にはならない。だから、やめる。
ふと思い出した時に文章を書きたくなるんだけど、だいたいすぐに上記の流れになり、やめてしまう。
その点ツイッターは、まぁなんだかんだと言っても、言い逃げできるし、書きかけの文章でも困らないし、意外と人から反応がもらえるのでいい気分ではある。
それでも、ツイッターに自分の考えを書き込むことは稀なのは、根本に文章が苦手なのがあるのだろう。
言語能力が低い、と思う。本当に。
最近は特にそう思う。
会話に困るわけではない。むしろ、大学生になってから滅茶苦茶会話をするようになって、俺は意外と会話が得意なのではと思い始めた。でも、意思疎通は取れていない。友達らしい友達はいないし、やっぱり高校のころの友達以上の仲は決して築けていないよ。要は出鱈目を言いまくるのが得意なだけだ。Yesだよと言った直後にNoだよといい、やっぱりそれは嘘で本当なんだよ、と言う。こんなのは誰にでもできる、とは言わないが、少なくとも言語能力は必要ないだろう。
言語知識がないわけでもない。つまり国語の勉強はしてたし、できてた。きちんと書くことが決まったレポートを書かせてもらえれば、誰にも負けないスピードで書き上げる自信があるし、書けてた。
俺が昔からよくやっていたコミュニケーション術、文章術と言うのは、与えられたお題に対して、大喜利のように知識を引き出して、関連ありそうな単語、言葉を並べて、最後に少し整合性を取ってみる、それだけだったんだ、と最近になってようやく気づいた。
皆はすげえな、アレとかコレとか、本気でやってて、本気で意思疎通を取ろうとしてるんだな。
俺は人間同士で意思疎通なんて絶対できないと思ってる。それは間違いない。
だって、脳みそ同士をくっ付けられるならともかく、物理的障壁がある以上、理解って言うのは絶対ありえないし、ありえたら困るよなと思う。
だから、意思疎通って言うのは基本的に茶番でおふざけみたいなものだよね、って思ってたんだけど、どうやらその態度ではそのおふざけすら上手くいかないらしい。
そういえば、昔国語の教科書に書いてあったな。共感は不可能だけど、不可能だったとしても、共感しようとする意思、態度が、コミュニケーションには必要だって。
これを俺は見た目や行動を、そう言うルールに基づいて、そう言う風に見えるように、やれよって意味だと受け取ったんだけど、これは違くてマジでやれよって意味だったんだな。
意外にも人間は頭がいいので、行動のどこか、言葉のどこかの端に浮かぶ、本気じゃなさを受け取って、不誠実に感じるようにできてるらしい。
今更ながら、俺はもっと本気で人と意思疎通を測るべきたったな、と思った。
で、文章の話に戻る。
文章って言うのは、誰かに何かを伝えるもの、意思疎通を測るものだったらしい。
らしいって言うのは、俺がそれを理論としては理解していても、直感的に理解できていないからだ。
つまり、俺は一人で文章を書いて、それを誰にも見てもらえなくても、それはあり得ると思っていた。というか、それしかありえないと思っていた。
小説とか詩とかは面白いけれど、それが他人のために書かれたものだと言うことが理解できない。
そりゃ、読者は読んで何か感じるけど、それは勘違いであって作者の意図とは関係はない。作者が作品を書く理由は自分の思考の整理であったり、いくつかの文章を読んで、それらの模倣をすることで、文章構成を学ぶための勉強、写経のようなものであったり、どのような理由であれ、自分のためのものであり、建前はともかく、読者の存在は作者の意識にはないものだと、俺はずーっと思い込んで来た。
もちろん、読者だとかそう言うことが書いてある評論とかに触れなかったわけじゃない。国語の勉強はして来たし、文学史は学んだ。でも、それは建前で、そうしないと解釈とか、文学とかが意味がなくなっちゃうから、仕方なく、嘘でそう言っているものだと思って来た。
だから、自分の考えを文章にさえして、その文章技巧が論理的妥当性が素材が優れてさえいれば、人は勝手に勘違いしてくれて、感動すると思っていたんだけど、そうではないらしい。
どうも、
絶対に、ぜーったいに文章なんかで人が分かりあえるわけはないんだけど、分かり合えると思い込んでなければ、分かりあうふりすら上手くいかないらしいんだな。
と言うのが、最近俺がムカついていることで、なおかつブログを書く気になれない理由だったのだよ。
はい。
これらは俺が本気で思っていることだし、他人にも本気で共感してほしいなぁと思うことでありました。共感してください。
ダメだね、これじゃあ。
ガイジパンはうめえって話
言いたいことがある。
ガイジパンはうめえって事と、ガイジパンはうめえって言う事は悪いことなのだろうか?って話。
この話をするにあたって、まず、ガイジパンってのは何かってのを説明します。ガイジパンって言うのはね、障害者が工場で作ったパンのことです。若干形が不揃いだったりするけど、その分値段も安めに手に入るし、購入すると何かに貢献した気分になります。
でも、俺は俺以外の何かに毛程も貢献したいとは思わないし、障害者の作ったパンには鼻くそとか入ってそうで嫌だから、今まで買ってこなかったんだ。それが、ある日母親が、レーズンの入ったガイジパンを買ってきたものだから、仕方ないし食べたら美味かった。で、気に入ってよくガイジパンを自分で買うようになった。
ここまでがガイジパンうめえって話です。
そして、俺が話したいと思っている事はここで七割ぐらい終わっていて、これから話すのは残り三割です。
俺はこの事件を踏まえて、ガイジパンはうめえって話をそこら中でしまくりました。
すると滅茶苦茶にウケる。話自体は全然面白くないので、予想するに、「ガイジパン」って単語がウケまくっている。もしくは、「ガイジパン」って単語の酷さと、話の内容の穏やかさのギャップが面白いのかもしれない。
まぁ人が感じる面白さの根源は何なのかって言うのにも諸説あって、不適合理論だとか、フロイトの抑圧理論(正式名称がわからないけどそんな感じ)とか、色々あるんだけど。動機によって大きくまとめて分類すると、攻撃的ユーモア、遊戯的ユーモア、支援的ユーモアってのがあるそうです。それぞれ、攻撃的ユーモアってのは人を馬鹿にしたりするのを楽しむユーモア、遊戯的ユーモアって言うのは言葉遊びだとか、予想外の出来事を笑うユーモア、支援的ユーモアって言うのは自分の失敗とか、深刻な問題を茶化して面白くするユーモアってことになってます。
この論で行けば、パッと見、主に攻撃的ユーモアに当たるのかなとか思うんだけども、俺に障害者を攻撃する意図は全然ない。そもそも俺は障害者のこと好きでも嫌いでもないし、そもそも強いて言うなら俺は俺以外の人間全員嫌いです。これは俺の話を聞いてる人間にしたって同じで、学部がそう言うアレをアレするアレなので、大体の奴らが大体ふわっとした感じで理解を示しており、とにかく障害者を馬鹿にするの楽しい〜!って奴はなかなか居ないんじゃないかな。
だから、じゃあ支援的ユーモアかと言うとやっぱりさっきと同様の理由で違うと思う。第一ガイジパンうめぇって言ってどんな人間が励まされるって言うんだよ。
それで、よくよく考えてみると、遊戯的ユーモア、それも、予想外の出来事を笑うユーモアになる。この予想外の出来事を笑うって行為には有名な実験があって、重りを手に乗っけるとどうこうって言うのがあるんだけど、説明がめんどくさいので割愛します。多分不適合理論、重り、とか入れてググったらでてくる。
まぁとにかく人は予想外なことが起きたら笑っちゃうらしいので、突然俺が説明や前起きもせずに「ガイジパン」って言うことが予想外すぎて笑えてるんだと思う。
つまり、ここには悪意はないと思う。
よしんば悪意があったとして、俺は流石に障害者の人に対してこの話はしていないので傷ついている人間はいないと思う。
でも、こう言うのってなんか非倫理的な感じするよね。何でだろう。
障害者に対して、勝手なイメージを当てはめた話をすることで、障害者に対する余計な偏見を広めたり、その地位を貶めたりすることに繋がるからだろうか。
しかし、それもやっぱりおかしいと思う。
だって、「障害者の作るパンが美味い」って話をして、障害者の地位が下がるだろうか。もしくは、そのイメージが広く流布することでどんな損が生じるって言うんだろうか。
となるとやはり諸悪の根源は「ガイジパン」って言葉そのものなのだろうか。
言葉そのものが悪い、って考え方がどうにも昔から腑に落ちなかった。
土人って言葉は差別用語だから使っちゃまずいとか、ロンパリって言葉は揶揄的であるから使っちゃだめとか、それどうよって思う。思わないか?
だって土人が土人じゃ無くなったら、どうするんだよ。なんかイメージが違っちゃわないか。これは俺だけかもしれないけど、土人って聞くと、土に塗れて自然と調和しながら生きている人々とって言うイメージが頭にパッと浮かぶ。これが原住民とかに変わっちゃうと、すげえ冷たい、なんか、言葉の裏で人権や権利やらを主張されている気分になってすごいやだ。人食い土人のサムサムとかどうなっちゃうんだよ、人食いも土人も差別用語だから使えない、とか言われちゃったら、サムサムの立場はどうするんだよ。可哀想だと思わねぇのかよ。おい。
ロンパリもなんかロンドンとパリって、お洒落でヘンテコで可愛らしい感じじゃんか。これが斜視とか言われちゃったら、俺は邪悪な怪物みたいなイメージしか湧かないよ。
水木しげるは、原住民への尊敬の念を込めて「土人」と呼んでいたって話は有名だけど、これが俺は本当に好きだ。
元はどうだか知らないよ。もともと言葉自体を作った人は、本当に心の底からその人々を見下してて、とんでもなくひどい意図があったのかもしれないけど、それでも広まってしまった以上はそこに物語が無数に発生し積み重なっている。それを使わなくしてはいおしまいって言うのはさ、臭いものに蓋をして見て見ないふりをしてるだけなんじゃないの。本当に俺たちがするべきなのはさ、素晴らしい物語をそこに積み上げていって、その言葉をいい意味に捉えられるように、変えていく事なんじゃないのかな。
ニガーって言葉はタブーだけど、黒人同士がヤァ兄弟って意味でニガーを使ったりしてたらしい。すごいクールだと思う。今はどうだか知らないけど、俺が思うにこう言う使い方は規制とともに消え去ってしまうんだと思う。そう考えたらコンチクショーって気分になるんだけど。なってるかな。いやなってないかもしれない。
よく考えたら、そんなに拘りもないしどうでもいいんだけど、そう言う事ばっか言ってると怒られそうなんで、ひどい事言ってなんか怒られたらこういう言い訳をしとこうかなと思いました。