ガイジパンはうめえって話

言いたいことがある。

ガイジパンはうめえって事と、ガイジパンはうめえって言う事は悪いことなのだろうか?って話。

 

この話をするにあたって、まず、ガイジパンってのは何かってのを説明します。ガイジパンって言うのはね、障害者が工場で作ったパンのことです。若干形が不揃いだったりするけど、その分値段も安めに手に入るし、購入すると何かに貢献した気分になります。

でも、俺は俺以外の何かに毛程も貢献したいとは思わないし、障害者の作ったパンには鼻くそとか入ってそうで嫌だから、今まで買ってこなかったんだ。それが、ある日母親が、レーズンの入ったガイジパンを買ってきたものだから、仕方ないし食べたら美味かった。で、気に入ってよくガイジパンを自分で買うようになった。

 

ここまでがガイジパンうめえって話です。

そして、俺が話したいと思っている事はここで七割ぐらい終わっていて、これから話すのは残り三割です。

 

俺はこの事件を踏まえて、ガイジパンはうめえって話をそこら中でしまくりました。

すると滅茶苦茶にウケる。話自体は全然面白くないので、予想するに、「ガイジパン」って単語がウケまくっている。もしくは、「ガイジパン」って単語の酷さと、話の内容の穏やかさのギャップが面白いのかもしれない。

まぁ人が感じる面白さの根源は何なのかって言うのにも諸説あって、不適合理論だとか、フロイトの抑圧理論(正式名称がわからないけどそんな感じ)とか、色々あるんだけど。動機によって大きくまとめて分類すると、攻撃的ユーモア、遊戯的ユーモア、支援的ユーモアってのがあるそうです。それぞれ、攻撃的ユーモアってのは人を馬鹿にしたりするのを楽しむユーモア、遊戯的ユーモアって言うのは言葉遊びだとか、予想外の出来事を笑うユーモア、支援的ユーモアって言うのは自分の失敗とか、深刻な問題を茶化して面白くするユーモアってことになってます。

この論で行けば、パッと見、主に攻撃的ユーモアに当たるのかなとか思うんだけども、俺に障害者を攻撃する意図は全然ない。そもそも俺は障害者のこと好きでも嫌いでもないし、そもそも強いて言うなら俺は俺以外の人間全員嫌いです。これは俺の話を聞いてる人間にしたって同じで、学部がそう言うアレをアレするアレなので、大体の奴らが大体ふわっとした感じで理解を示しており、とにかく障害者を馬鹿にするの楽しい〜!って奴はなかなか居ないんじゃないかな。

だから、じゃあ支援的ユーモアかと言うとやっぱりさっきと同様の理由で違うと思う。第一ガイジパンうめぇって言ってどんな人間が励まされるって言うんだよ。

それで、よくよく考えてみると、遊戯的ユーモア、それも、予想外の出来事を笑うユーモアになる。この予想外の出来事を笑うって行為には有名な実験があって、重りを手に乗っけるとどうこうって言うのがあるんだけど、説明がめんどくさいので割愛します。多分不適合理論、重り、とか入れてググったらでてくる。

まぁとにかく人は予想外なことが起きたら笑っちゃうらしいので、突然俺が説明や前起きもせずに「ガイジパン」って言うことが予想外すぎて笑えてるんだと思う。

つまり、ここには悪意はないと思う。

よしんば悪意があったとして、俺は流石に障害者の人に対してこの話はしていないので傷ついている人間はいないと思う。

でも、こう言うのってなんか非倫理的な感じするよね。何でだろう。

障害者に対して、勝手なイメージを当てはめた話をすることで、障害者に対する余計な偏見を広めたり、その地位を貶めたりすることに繋がるからだろうか。

しかし、それもやっぱりおかしいと思う。

だって、「障害者の作るパンが美味い」って話をして、障害者の地位が下がるだろうか。もしくは、そのイメージが広く流布することでどんな損が生じるって言うんだろうか。

となるとやはり諸悪の根源は「ガイジパン」って言葉そのものなのだろうか。

言葉そのものが悪い、って考え方がどうにも昔から腑に落ちなかった。

土人って言葉は差別用語だから使っちゃまずいとか、ロンパリって言葉は揶揄的であるから使っちゃだめとか、それどうよって思う。思わないか?

だって土人土人じゃ無くなったら、どうするんだよ。なんかイメージが違っちゃわないか。これは俺だけかもしれないけど、土人って聞くと、土に塗れて自然と調和しながら生きている人々とって言うイメージが頭にパッと浮かぶ。これが原住民とかに変わっちゃうと、すげえ冷たい、なんか、言葉の裏で人権や権利やらを主張されている気分になってすごいやだ。人食い土人のサムサムとかどうなっちゃうんだよ、人食いも土人差別用語だから使えない、とか言われちゃったら、サムサムの立場はどうするんだよ。可哀想だと思わねぇのかよ。おい。

ロンパリもなんかロンドンとパリって、お洒落でヘンテコで可愛らしい感じじゃんか。これが斜視とか言われちゃったら、俺は邪悪な怪物みたいなイメージしか湧かないよ。

水木しげるは、原住民への尊敬の念を込めて「土人」と呼んでいたって話は有名だけど、これが俺は本当に好きだ。

元はどうだか知らないよ。もともと言葉自体を作った人は、本当に心の底からその人々を見下してて、とんでもなくひどい意図があったのかもしれないけど、それでも広まってしまった以上はそこに物語が無数に発生し積み重なっている。それを使わなくしてはいおしまいって言うのはさ、臭いものに蓋をして見て見ないふりをしてるだけなんじゃないの。本当に俺たちがするべきなのはさ、素晴らしい物語をそこに積み上げていって、その言葉をいい意味に捉えられるように、変えていく事なんじゃないのかな。

ニガーって言葉はタブーだけど、黒人同士がヤァ兄弟って意味でニガーを使ったりしてたらしい。すごいクールだと思う。今はどうだか知らないけど、俺が思うにこう言う使い方は規制とともに消え去ってしまうんだと思う。そう考えたらコンチクショーって気分になるんだけど。なってるかな。いやなってないかもしれない。

 

よく考えたら、そんなに拘りもないしどうでもいいんだけど、そう言う事ばっか言ってると怒られそうなんで、ひどい事言ってなんか怒られたらこういう言い訳をしとこうかなと思いました。